津八幡宮(つはちまんぐう)
かつて津八幡宮は千歳山(現;垂水・石水博物館付近)にあり、寛永9年(1632年)に津藩の二代目藩主である藤堂高次公によって、現在の八幡町藤方にうつされました。かつては「八幡神社」などと呼ばれ、時代を追うごとに名称が変遷していましたが、現在は「津八幡宮」となっています。地元では、「八幡さん(はちまんさん)」と呼ばれ親しまれています。
津八幡宮は津まつりの起源であることで知られており、10月第2月曜日の前々日と前日に神輿渡御神事、10月15日に例祭が執り行われます。神輿渡御神事と同日にはしゃご馬や分部町唐人踊り、八幡獅子舞などの出し物が氏子町を巡行するほか、津市中心部では様々な催し物が行われ、古くから津まつりとして市民に親しまれています。
御祭神は、応神天皇、神功皇后、住吉大神、津藩の初代藩主である藤堂高虎公で、津の街の鎮守神、総氏神として崇敬されています。
写真1:津八幡宮の社殿(左)と手水舎(右)、その間に見えるのが社務所
津八幡宮の所在
現在の津八幡宮は、津市八幡町藤方に在ります。かつては千歳山(現;垂水・石水博物館付近)にありましたが、津藩の二代目藩主である藤堂高次公によって、現在の地にうつされています。
津八幡宮は多くの木々に囲まれ、その木々は森を形成しています。かつては現在の結城神社の境内を含む森全体が津八幡宮の境内でしたが、のちに結城神社がその森の北側半分に造営され、現在では森の北側が結城神社、南側が津八幡宮となっています。
氏子町である八幡町は、津八幡宮から西へおよそ200mほど離れたところに在り、南北に細長く、その中心となる通りは伊勢街道となっており、地元では「八幡通り」と呼ばれています。津八幡宮も住所は八幡町ですが、氏子町の八幡町からは離れており、八幡町の飛び地住所となっています。
昭和の住所表示によって他の地名になる可能性がありましたが、津八幡宮の氏子町として古くから関わりがあり、歴史がある地名であることから、町民が「八幡」の名を残すことを強く希望し、現在でも古くからの「八幡町」の名が残っています。
津八幡宮の歴史
津八幡宮は伊勢国に初めて建立された八幡宮と伝えられ、建武年間(1334年~1338年)に現在の京都府八幡市にある石清水八幡宮の御分霊を、千歳山(現;垂水)に勧請(神仏の御分霊を願い迎えること)されたことに始まります。その後、寛永9年(1632年)に藤堂高次公によって現在の八幡町藤方にうつされ、同時に、藩祖である藤堂高虎公を開拓神として合祀し、鎮守神、総氏神として崇敬されるようになりました。
寛永12年(1635年)には、高次公によって八幡町をはじめとする各町に祭礼を執り行うよう推奨・保護され、その祭礼は津まつりとして現在までおよそ400年間続いています。
明治時代には津の街の氏神神社として、明治6年(1873年)に郷社、明治40年(1907年)に県社へ昇格して現在に至ります。
神社名の変遷
津八幡宮は、その長い歴史の中で時代とともに神社名が変遷しています。
明治より以前には「八幡宮」と称され、地名より「安濃津八幡宮」とも呼称されています。その後、明治年間(1868年~1912年)の神衹制度などの改革により、様々な神社の社号が整理された際、「八幡神社」と改称されました。
平成三年(1991年)には、古来の社号である「八幡宮」を称し、「津八幡宮」となって現在に至ります。
津八幡宮のすがた
社殿
かつての社殿は、八幡造の豪華で立派なものでした。しかし、昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の空襲によって、社殿や神輿を含む境内のほとんどの建造物が焼失しました。現在の社殿は、昭和42年(1967年)に氏子らの篤志奉賽によって復興し、造営されています。
写真2:戦前の社殿(津八幡宮蔵)
大鳥居
参道入口に建つ大鳥居は、以前の大鳥居が台風によって倒壊したため、平成3年(1991年)に建て替えられたものです。この大鳥居は、三重県北牟婁郡紀北町より木材が切り出され、新しい鳥居を建てるにあたって御木曳(同年5月18日)や神門祭(同年10月5日)など、様々な催し(神事)が行われました。
この大鳥居から奥は聖性が高まり、下乗(自動車や馬車などの乗入れは禁止で、徒歩で参拝しなければならない)で、犬や猫などのペットも大鳥居から奥へは一緒に入れません。
参道
津八幡宮の参道は、社殿から南へ延びる参道と、社殿から西へ延びる参道があります。南の参道は約200メートルほどの長さで、その入口に大鳥居が建っており、津八幡宮の表参道となっています。また、西の参道は南の参道よりかなり小規模ですが、氏子町である八幡町への最短経路となるため、八幡町民の多くはこちらの参道より参拝しています。
また、現在の結城神社北端から近鉄道路を交差して伊勢街道(通称;八幡通り)へと延びる通りも、かつては津八幡宮の参道として栄えた通りでした。平成の中頃までは、この通りと八幡通りとの交差点(T字路)に、津八幡宮の参道であることを示す石碑が建立されていましたが、現在は西の参道入口に移設されています。
写真3:大鳥居と参道
手水舎
津八幡宮の手水舎は、戦火を逃れた、津八幡宮で現存する最古の建造物です。現在は社殿に向かって東側にありますが、かつては現在の位置とは異なる場所に建っていたため、戦火を逃れることができました。
手水舎の屋根の内側には千社札が多く貼られており、手水舎が古くから残っていることが分かります。
※現在は寺社仏閣に千社札を貼付することは禁止されています。
御旅所
10月の神輿渡御神事の際に、神様がお泊りになる建物で、神輿が一晩安置されます。
時代とともに御旅所は転々としているようですが、現在は津観音の五重塔北側(津市大門)にあります。
現在の御旅所は、平成16年(2004年)に建て替えられたもので、同年9月18日に竣工祭が執り行われています。
写真4:御旅所と神輿
津八幡宮と氏子町
現在の津八幡宮と氏子町との関係性は、藤堂高次公によって津八幡宮が現在の地にうつされ、同時に八幡町を設置されたところまで遡ります。
古くは津城下の各町が、祭礼の際に競い合うように出し物を出していたことから、八幡町のほか、津城下全体が津八幡宮を氏神として奉仕していたと考えられます。
現在では八幡町をはじめ、大門や東丸之内など、かつての津城城下町を中心に氏子が住み、津八幡宮を奉仕しています。特に八幡町はその成り立ちからも津八幡宮と関係が深く、神社の奉仕者や行事の参加者の割合が高くなっています。また、神輿渡御神事における神輿の担ぎ手の多くは八幡町在住者や出身者で、幼少期より境内で遊んだり、行事に参加したりと、古くから津八幡宮との結びつきが強い町となっています。
なお、津八幡宮が千歳山(現;垂水)に在った時代の古地図にも八幡町の地名を見ることができますが、現在の地図と照らし合わせると垂水の付近に記されていることから、津八幡宮が現在の地にうつされた際に、八幡町も現在の地にうつったものと考えられます。
全国の八幡宮と津八幡宮
八幡宮は、八幡神社や八幡社など神社により名称は異なりますが、八幡大神(はちまんおおかみ)と呼ばれる応神天皇(おうじんてんのう)や誉田別尊(ほんだわけのみこと)を主祭神として、応神天皇の母神である神功皇后(じんぐうこうごう)と比売大神(ひめおおかみ)を御祭神としています。
八幡宮の起源は、大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮で、およそ1500年前の欽明天皇(きんめいてんのう)時代に、宇佐の地に祀られるようになったのがはじまりとされています。
その後、平安時代には国家の守護神として、京の都の裏鬼門(南西)に当たる男山に鎮座することを宣託(神様がお告げを出すこと)し、勧請(神仏の御分霊を願い迎えること)されて造営されたのが京都府八幡市の石清水八幡宮です。その後、八幡大神を武士の守護神とする八幡信仰が全国に広まり、お宮が各地に造られるようになりました。津八幡宮も、石清水八幡宮から御分霊を勧請され、伊勢国に初めて建立された八幡宮と伝えられています。
0コメント